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洋裁学校とその先生の衣服について(洋裁学校編)

私たちの日常にすっかり定着した既製服。しかし、既製服が定着した歴史は意外と長くない。Hさんが洋裁学校を開いた1957年頃は仕立て服から既製服へ転換する時期であった。衣服を通して社会の変化とそれを生業として生きてきたHさんの歴史の断片をみていく。

 

Hさんは福岡の洋裁学校の師範科を卒業し、1955年に地元に戻ってきた。元々は洋裁学校を開くつもりはなかったが福岡から戻って来たその日の出来事をきっかけに洋裁学校を開く事になる。それはHさんのことを聞きつけた女性が洋裁を教えてくれと訪ねてきたのだ。帰ってきた初日にこんな来客が来るとは思ってもいなかったが、せっかく来てくれたのだから教えましょうということになった。たった1人からスタートした生徒だったが、教えるからには今まで自分が習った事をそのまま教えようと黒板を用意し、カリキュラムを組み、基礎縫いから丁寧に教えた。実家の一室を使った授業は序々に評判になっていき、一年目にして30人の生徒に教えた。その後も生徒は増える一方でならばと学校を正式に作ることになった。それが1957年のことだ。

 

1957年頃というのは日本の洋裁学校人口がちょうどピークになった時期と重なる(当時の洋裁学校とその生徒数は下記のような変化が見られる。●1947年 学校数400校、生徒数4万5000人 ●1951年学校数2400校、生徒数36万人 ●1955年 学校数2700校、生徒数50万人)。

当時作った洋服を見せてもらいながら「このシルエットが流行ってね」などとお話をしていただいた。流行の発信地であるパリや東京といった場所から距離の離れた地方の街で、どのように流行を捉えていたかは気になる点だ。Hさんに伺うと主にスタイルブックという洋服の図面付き雑誌から情報を得ていたようだ。例えば文化式(No.4前編の註釈1参照)の図面なら装苑に型紙がついており、それを見ながら作ったり、参考にしつつ生徒に教えていた。また生徒が自ら制作した服を着て、ファッションショーやダンスパーティーを開く行事もあり、定期的に生徒に発表の場を作っていた(写真1、写真2)。

 

学校を始めた当初は花嫁修業のために洋裁を学びに来る人が多かったようだが、4,5年後にはそのような意識は消え、手に職をという考えのもと学校に通いだす生徒が多くなった。この話を聞いた時、生徒たちのその後の働き先が気になった。Hさんに伺うと、街中に洋裁店が沢山あり、1階は生地売り場、2階には仕立て部門があるのが普通で教え子たちは縫子さんとして就職していったそうだ。まだ既製服が売られていない時代で、多くの人が服を仕立てに来ていたのでそれだけ縫子さんも必要だったのだ。「仕立てる」というと、イメージ的にはその人だけの、手間隙かけて作る高級品と思ってしまうが、その当時の庶民の「仕立て」は様子が違う。聞くと、街で誰かが着ていたワンピースなりを見て、「私もあのデザインでお願い」という感じでオーダーがくる。それが1人2人の話ではない。ほとんどの女性が同型を依頼してくるので、そうすると街中に同じデザインの、生地違いの女性が溢れていたというのだ。ちょっと想像すると面白いのだが、こんな状態なので仕立て部門は同じデザインのサイズ違いをじゃんじゃん縫っていくという生産形態だったそうだ。ほとんど既製服の走りだったとおっしゃっていたのが印象的だ。

洋裁学校の話に戻すと、創立10周年の1967年には生徒数は120人(二年制、昼・夜間の合計生徒数)になりピークに達した。その頃は地元の中学、高校に宣伝に行かずとも多くの学生が学びに来ていたがその後少しずつ学生が減少していく。高校卒業後すぐに就職する学生が増えたことが一因のようだ。また洋裁学校の前に事務仕事のスカウトをしだす人まで現れたというので、それだけ色んな職種に人手が足りていない時代だったのだろう。

 

そして学生が減ってきた1970年、既婚女性の「趣味の会」というものが流行りだす。というか、Hさんが流行らせたらしい。「趣味の会」というのは洋裁教育を受けていない既婚女性が身の回りにあるもの、例えばエプロンや簡単な普段着などを作る会のことを指す。授業はエプロンを作りたい人にはエプロンの製図を教えるといった個人単位での授業で基礎から学ぶ洋裁学生とは違った。この「趣味の会」は大変な人気で、朝には席をとるために走って学校に詰めかけるという現象まで起きた。「趣味の会」の派生は時代が豊かになりだし、時間ができた主婦の人達が日用品を手作りしたいという願望とHさんの授業方法がマッチして生まれた流行であったようだ。この現象が他の街でも発生していたかは定かでないが今後の取材で聞き取りを行いたい。

 

学校設立から色んな時代と生徒の流れがあり、創立46年目の2003年にHさんの洋裁学校は閉校した。

 

現在79歳のHさんは、亡くなったご主人が営まれていたパン屋さんとお弁当を作る会社を引き継ぎ、現在も現役でお仕事をされている。

Hさんのお話を伺い、今までの活動を見ているとキャリアウーマンのはしりだと思った。幼い時からとにかく物を作るのが大好きで、友達が外で遊んでいても自分は教室でせっせと編物をしていた。出来上がったものを友人にプレゼントして喜ぶ顔が嬉しくてたまらなかったと。そんな少女が自分の大好きな事を仕事にし、家庭を持ち日々を全力で生きていたことがインタヴューを通して伝わってきた。

そして、今でも残っている衣服のほとんどは当時の教え子たちが縫ったものだ。Hさんのインタヴューには教え子の女性2人が同席していたが、机に並べられた服を見て、これは私が縫った、この服はよく先生着てらっしゃいましたね、と思い出話に花を咲かせていた。Hさんが残していた衣服は彼女だけの衣服、というだけではなく生徒たちの記憶や思い出もしっかり残っていた。

そういった意味では、時代や記憶の共有物のような役割を担っている衣服だと思った。

 

さて、最後に洋裁学校について。インタヴューを終えての印象だが、地方の方が、特にその規模が小さくなればなるほど、社会の動き・変化にスムーズに対応しずらいことが分かる。縫子さんを輩出するという単一的な目的で動いているとそれが必要なくなった時、身動きがとりずらい。かといってデザイナーやパタンナーなどの職種は小さな街では必要とされず育成自体が難しい。このような時代と生産の変化に足並みをそろえることが出来なくなった洋裁学校は沢山あるだろう。その多くは閉校していると思うが、そこで洋裁を享受した人はかなりの人口いるのではないかと思う。その方たちが日本の既製服の初期時代を支えていたのかもしれない。衣服と共に女性が働く、社会進出していった活発な時代の空気をHさんとの対話で感じた。

 

 

【参考文献】

小泉和子編『洋裁の時代 日本人の衣服革命』社団法人農山漁村文化協会、2004年

写真1 ショーの台本。昭和34年のもの。
写真2 作品の情報、デザインの特徴が書かれている。ショーの最中に読まれる。生地の種類、使用した要尺、生地価格まで書かれている。