今でも残しているお洋服を見せて下さいというと、Tさんの子どもの頃のワンピースから大学生の時に着ていたものまでどっさりと出て来た。インタヴューの場所はTさんのご実家。これらすべてのお洋服を作られたお母さんのSさんと一緒にお話を伺った。
Sさんは1928年生まれ。聞くと終戦後、尼崎市にある文化服装学院系列の洋裁学校に通っていたそうだ。学校卒業後はそのまま講師として2年ほど生徒の指導に携わり、その後は心斎橋高島屋のオートクチュール縫製部で4年働いた。結婚と同時に高島屋を退職し、自宅で今までの経験を活かした仕立ての仕事を続けた。依頼に来るお客さんは主に近所の方々で、よそ行きの服をお誂えでお願いしにくることが多かったようだ。また結婚前の娘さんに基本的な洋裁技術を教えることも行なっていた。世に言う花嫁修業だろうが、彼女たちの仕事が終わった夜から、多い時で10人くらいに教えていたそうだ。
Sさんの生い立ちや服作りに携わり始めてからのお話を伺っていて頭によぎったのは、以前インタヴューを行なった洋裁学校の先生だ(05 洋裁学校とその先生の衣服について)。その際、教え子たちの卒業後の働き先のことを聞いた。今回Sさんのお話を聞くと、生徒側としての卒業後の生き方と洋裁への関わり方が見えてきた。Sさんの場合は主に仕立て服と近隣の若い女性への基本的な洋裁教育、そして娘さんTさんへの服作りである。これらの服作りはTさんが結婚する1983年頃まで続け、それ以降の制作は減ったが手を動かすことは現在でも続けている。
Tさんのために新しくお洋服を仕立てるのは大切なイベントや特別な行事がある時だ。例えば写真1のワンピースは小学校4年生(1965年頃)の時、遠足のために作られた服だ。Tさんはこのワンピースが大変お気に入りでその後よそ行きのお洋服、着古すと普段着として大切に着ていた。そして中学生くらいになると、2人で百貨店の生地屋さんに行き、新しく作るお洋服のための生地を選んでいたという。デザインは主に当時のアイドルや女優さんが着ていた服を見て、似た雰囲気のものを作ってもらっていた。大学時代に着ていたという衣服を見ていこう。大学1回生の時に作ってもらった中国風のブラウス(写真2)。キュプラのようなつるんとした生地でチャイナボタンがアクセントになっている。細かいピンタックやスタンドカラーのパイピングもとても美しい仕上がりだった。Tさんはこの服を着て大学内を闊歩して「とても誇らしかった。」と話してくれた。母親が作ってくれたからこその纏い手独特の感情だ。写真3の赤い化繊のワンピースも大のお気に入りだったという。当時の流行で襟が大きめなのがポイントだとおっしゃっていた(写真3)。このワンピースを着て、家族で京都府立植物園に行ったことを覚えていると言い、その時撮った写真も見せていただいた(写真4)。白柳の横でバッチリときまった姿。白と赤のコントラストが綺麗だ。最後は手編みのニット(写真5)。小さいサイズのニットはそれだけで可愛いのだが、袖や襟ぐり(写真6、写真7)にお直しの後が残っていた。その色の取り合わせや継ぎ接ぎ感がなんとも魅力的だった。
インタヴュー後に、資料の参考になればと写真をお借りすることが出来た(写真8)。母親のSさんが作った服を着るTさんの姿。実際に残っている衣服と写真での衣服を見せていただき、こんなにも手作りの衣服があるのかと改めて驚かされた。節目節目に作られた衣服は、Tさんの成長の記録にも見えてくる。そしてお二人が仕立てた衣服と共に、その時の嬉しい感情や季節の出来事、行事をきちんと覚えていることにも驚いた。今回は想い出の沢山詰まった衣服と共に、戦後洋裁教育の受け手の1人の生き方に触れることが出来た。そして、なんといっても娘のTさんの当時を思い出す時の嬉しい・楽しい感情を肌で感じ取れたことが私にとって何よりも幸せな時間であった。