Mさんのカッコいいイメージからは想像もしなかったピンク色のセットアップ(写真1,2)を机の上に広げていただいた時は少しびっくりした。1984年、当時26歳だったMさんが友人の結婚式に出席するためにお母さんがお手製で誂えてくれた服だ。特にデザインの注文をした覚えはないようで式に合わせて用意してくれた。この服は友人の結婚式に出席した1度だけ着用し、その後は着ることはなかったそうだ。しかしいつか着よう着ようと思い、一番身近な箪笥に入れ、毎年衣替えの季節に箪笥から箪笥へと移動させていたが、ついに袖を通すことはなくこのプロジェクトのもとにやってきた。
Mさんは出席した結婚式のことを鮮明に覚えていた。真夏に行われた結婚式は今はもうなくなってしまった六甲オリエンタルホテルのチャペルで行われたこと。標高770mほどの高さにあるホテルだったが汗で生地が身体にくっついてきたことや挙式の後は披露宴ではなくティーパーティーが開かれたことなど。もう30年前の出来事だが、1着の衣服に過ごした時間が詰まっている。
そして、このセットアップを作ったMさんのお母さんは服作りが生活の一部にとけ込んだ人であった。職業として服飾に携わったことはなく専業主婦だったが、何かイベントがあるごとに服を誂え、その服作りのために夜なべするほどだったという。拝見させていただいたセットアップのお洋服はあまりに仕立てが美しく、どこかの洋裁学校で服飾の教育を受けたのかと思っていたが、全くの独学で洋服の製図、縫製まで出来るようになったそうだ(写真3,4,5)。独学でもこんなに美しく仕立てられるものかと驚き、その手先の器用さと元来の丁寧な物作りの姿勢に心が打たれた。Mさんのお母さんが洋服を作り始めたのは日本が終戦した昭和20年(1945年)以降からだ。戦争の終わりとともに訪れた洋装文化。お姉さんと共に疎開先の兵庫県三木市でファッション雑誌を読みあさり、手作りで自分たちの洋服を作った。京都で短大生として過ごした学生時代は社交ダンス全盛期でダンスでターンをすると美しく円を描く、サーキュラースカートをお姉さんが作ってくれた。私はこの話を聞いた時、戦後の洋装文化への熱を強く感じた。戦争が終わり、新しい文化と生活スタイルがどっと流れ込んできた時代だろう。金銭的には決して豊かではない時代だったと思うがそれでも新しい時代の空気を、「装う」「纏う」ということを通して楽しんでいたのを感じる。
またピンク色の生地の出所について。この生地は日本で購入したものではなく、フィリピンのマニラで買ったものだっだ。何故そんなところで、と思うがMさんのお父さんは貿易商で当時1ドル350円の円安を追い風に東南アジアやインドと盛んに貿易をしていた。主に生地の売買を行っており、このピンク色の生地は仕事先で購入してきた生地だった。他にも小学生の時、インドネシアのバティックを使った生地で洋服作ってくれたそうだ。とても上質な生地だったがバティック独特の渋い色彩が小学生のMさんにはあまり気に入らなかったという。他にも着ていた服の色彩や柄の組み合わせ、また特に母親が作ってくれた服に関してはほとんどいっていいほど覚えていらっしゃった。まわりの同級生もお母さんお手製の洋服を着ており、見本にする雑誌に限りがあるのでデザインがかぶることもしばしばあったそうだ。しかし作り手が違うとデザインが同じでもどことなく全体の雰囲気も違い、その「なんだかちょっと違う」という微妙な差がお話を伺っていて面白かった。
1986年にMさんは仕事で独立した。その年に麻で作られた白と黒のワンピースを作ってもらったことを最後にそれ以降、お母さんはお洋服を作ることはなかったという。理由は黒いワンピースを縫うとき、黒地に黒の糸が見えづらくなったことが衣服制作を引退するきっかけになったようだ。マニラで買われた生地、戦後の洋裁文化と共に身に付けた技術、今はなき六甲オリエンタルホテルでの結婚式。どのエピソードも1984年という時代を鮮やかに映し出している。