今回衣服を収集・インタヴューさせていただいた方は洋裁学校の先生をされていた方だ。Hさんが洋裁学校を開かれていた大分県竹田市は、現在人口23000人程の小さな街だ。開校当時はもう少し大きな街であったが、Hさんの学校設立から閉校までの流れを聞くと、日本の洋裁文化や社会の流れを少しだけ垣間見ることが出来る。今回は収集した衣服と共に洋裁学校の変遷についても触れてみたい。文章が少し長くなることから二回に分けて記事を上げる。前編は収集した衣服について。後編はHさんの洋裁学校の変遷を通して見えてくる事をまとめていこうと思う。
1957年、福岡の女子大を卒業してから地元の竹田市に戻り、洋裁学校を始めた。Hさんが23歳の時だ。23歳で学校を作るのだから、今から考えても凄いことだ。Hさんは授業に使った講義ノート、古いスタイルブックや文化式(注1)の赤い教科書を大切に保管していた(写真1)。洋裁学校と一緒に衣服の仕立ても行なっていたことから、その時のお客さんの「サイズ帖」がいくつか残されていた。「サイズ帖」にはお客さんの要望する簡単なデザイン画と採寸した数字が書かれている(写真2、3)。
そして残っている衣服を見せていただく。かなり多くの衣服が残されていたがそのすべてが手作りだった。デザインや製図はHさんが行い、縫製は教え子たちが働く学内の実習部という所にお願いして仕立てていた。
その中から2着を収集させていただいた。オレンジ色と菱形のネックラインが印象的なワンピースは洋裁学校の先生をしていた時の普段着である(写真4)。黒いジャケットと半袖のワンピースのセットアップは喪服として着ていた(写真5)。服の裏側を見る。仕立てられた衣服の多くがそうであるように非常に多くの縫い代が付いていた。脇で3㎝、裾で10㎝ほど付いている。現在私たちが着ている衣服のほとんどは脇1.2~1.5㎝、裾3~5㎝くらいだ。多めに縫い代を付けて体型の変化に合わせ補正することを前提に縫い代が付けられている。逆にオレンジ色のワンピースでは裾の縫い代を出し切ってしまったため、同色の裏地で縫い代を継ぎ足している。一着の衣服を個人の体型やライフスタイルに合わせて変化させていくあり方を見ることが出来る(写真6)。
また黒いジャケットの内ポケットには縁飾りがされていた。私は縁飾りをこの時初めてみた。この飾りはルーシング(ruching)といって布を縫い縮め、一種の飾り紐にしたものでコートやスーツの内ポケットの飾りとして用いる。縫い目の継ぎ目隠しとして使うこともある。この隠された装飾は現在の既製服のスーツではほとんど見る事はない(写真7)。
シンプルな黒い喪服は今でも充分着れるデザインだ。実際私も着てみたのだが半袖のワンピースの方はリトルブラックドレス(注2)といってもいいような可愛らしいものだった。やはり時代的な雰囲気を感じるのはオレンジ色のワンピースの方だろう。Hさんが書いた50年前の製図ノートを見たが現代の製図と大きく違わない。同じ人間なので基本は一緒なのだ。それでも衣服の変遷を見ると似たようなデザインはあれど、全く同じ服だと感じることはない。生地感や柄、丈、シルエットの微妙な変化でその時代を象徴するスタイルが生まれる。50年前に引かれた図面を見ながら、人間の変わらない部分とそれでも違う衣服が生まれるスタイル、という不思議な現象を考える。スタイルとは何か、と問う時、ある時代のある一定数の人間の生き方なのではないかと思う。しかしその生き方、というのは歴史という長い眼で見つめるとあまりに短く、そのせいでスタイルはなんだかふわふわした奇妙なものに見える瞬間がある。話は少し逸れるが私は古着を怖い、と感じる時があり、特に知らない人の古着には袖を通せない。古い衣服は、誰かが着ていたという個人の記憶や思い出が凝縮されているようにも思えるし、同時にその時代を生きた人間の生の残像にも見えるのだ。
古い衣服に深く染み込んだスタイルという時間性は、「わたしがその瞬間に在った」という揺るぎない事実を提示してくる。古い衣服特有の謎のオーラの源は、きっとそこなんではないかと思い、その強度が怖くもあるし魅惑的でもあって、こうしてライフワークとして衣服を収集する一つの要因にもなっている。
人間の生の瞬きを感じる、怖くて、魅惑的な衣服にこれからも出会えますように。
洋裁学校の変遷編につづく
注1:文化式の教科書というのは、文化服装学院が発行した教科書のこと。洋裁学校ごとに衣服を作るための原型の型紙が違い、その発案元に従って文化式、杉野式、ドレメ式などと呼ぶ。
注2:リトルブラックドレスとは装飾を排したドレスのこと。1926年にシャネルが黒一色のドレスを発表。当時は黒という色は喪服としての色彩であり、装飾的なドレスが一般的であったことから衝撃をよんだ。